冷たさだとかが何もわからない。
 シャワーの水は先ほどから絶え間なく慶の髪を服を肌を濡らしているのだが、そしてそれは冷水であるのだが。 冬も近いこの時期の行水としてはいささか時間が長すぎた。 指先などはもう色を失って、いままさに慶は屍体になろうとしていた。 それでも慶はその死の帳を無抵抗に待ち受けていたのであった。







もとめかたがわからない






 ガチャンと背後から音がして、慶は力なく振りかえる。 相手の顔を確認したときには体を打つ水の音は消え、かわりに触っているかもわからない柔らかい布を被った。
「風邪ひくで」
「そんなにやわではありません」
 私は仮にもファミリーの当主ですよ、そんな体がどうして風邪ごときに侵されましょう?  慶が言い放つとほぼ同時に、相手は強い力で慶の左腕をつかむ。人の話を聞かないとは無礼な男だとむっとした。
「……またやったのか!」
 いつもの無表情とは明らかに違う形相を目の前にして、慶の喉はくっと音を立てて震えた。
「見てください黒天さん。今日は一回で血管を刺せたんです。だからほら、血の色が綺麗なんですよ」
 笑みを含んだ声に、相手――黒天はさらに顔を険しくする。小さくだが舌打ちさえも聞こえた。
「アホか! 商品に手え出す商人がどこにおるん! 手に持っとる注射器よこせ!」
「ふふふ、いやです。だって黒天さん捨ててしまいましょう? これは私の玩具ですもの」
 にっこり笑ってみせて、手中の注射器の針をしかと己に向ける。 これを行えば、相手は怯んで動けなくなる。そして相手が諦めるまで針で肌に穴を開けるのだ。 そうすれば誰も邪魔をしなくなる、と薬に侵された慶の脳は判断していた。 ずっとずっと退行した人格と今の世に持つ知識と経験を併せ持った慶の頭は残酷な結論を見出して迷いなく実行する。 うろたえろうろたえろと笑顔の裏で切に願った。けれどもそれは叶わないことであった。
「何をするんです!」
「悪い子からは悪戯道具を取り上げんとな……?」
 ためらいなく、そして素早く慶の手から注射器を取り上げて、 黒天はそれをシャワールームのドアの向こうへ渾身の力を込めて投げた。カシャンと音がする。 どうやら針は粉砕されたようであった。
「ああぁ!」
 慶は悲痛な声を上げて、身を乗り出して注射器の末路を見ようとするが、 慶の手首と首を同時に拘束する黒天の腕からは到底逃れられない。体中が喪失感で満たされたように感じた。
「ああああああぁぁぁ……」
 脱力して腕の中でうな垂れた慶を見て、黒天はほんのすこし安堵する。そしてもう一度、自らの主人を罵倒した。
「アホ。……薬はもうあかんって、言うたやろ」
「……私の唯一の楽しみなのに?」
 淀んだ瞳は黒天を見据えるが、 黒天はそんな視線になど気付かぬようにシャワーに打たれた彼の髪と体をタオルで拭い始める。
「他に楽しみ見つけろ」
 言ってみせると大人しくタオルに己の水分を分け与えていた慶は多少の抵抗を見せた。 だが中途半端に濡れたタオルの中で、黒天を見上げる慶はまるで死にかけの犬のようだ。 今この青年を見て、闇の経済においての主導権を握るマフィアのボスだと、誰が思うだろう。 しかしそのみすぼらしい青年を主人と慕う黒天は彼をしっかりと抱きかかえた。
「自分で歩けます」
「何を言うん、今やって俺に捕まっとるだけで精いっぱいやろ?」
 その言葉に、慶は癇癪を起したように暴れだした。黒天はそれにも動じずにシャワールームを後にする。
「いやですいやですいやです! 放しなさい、放しなさい! 解雇しますよ!? 放せ!!」
「解雇? したらええ」
 幹部の部屋のドアが並ぶ廊下に黒天の低い声が響いた。それを聞いた途端だ。 腕の中で手足をできる範囲で振り回していた慶の抵抗がぴたりと止んだ。
「どうしてそうやって意地悪を言うんです……」
「意地悪? 言うとるのはそっちやろ」
 運びやすくなった慶を抱え直すと一番奥の当主の部屋のドアに手をかける。
 以前は先代の部屋として使われていた豪奢な家具たちもすべて取り払われ、 部屋の真ん中にキングサイズのベッドがあるだけの味気ない部屋に抱いたまま入る。
 移動の間にずいぶん乾いた短髪を撫でて、黒天は慶をベッドの上に寝かせる。 薬と水と冷気に侵されて死体のような重量と色をした慶は、いつまでも不機嫌そうに顔をしかめている。
「そんな顔しても、薬は打たせへんよ?」
「意地悪だ……」
「お前の体を気遣っとるんや、意地悪とは違う」
「私はちゃんと普段の生活に支障がないように打ってます……」
「俺が見る限り、量も増えとるし頻度も増しとる。もうこれ以上はあかん」
「い、いやだ……」

 白い布に包まれた灰色の青年は、体を縮めて涙を流した。
「泣いても薬なんて絶対に……」
「いやだ、いやだいやだ……いやだいやだいやだ……! あれは私の玩具だと言ったでしょう。 言ったじゃないですか。何もかも奪うつもりなのか。玩具は道具は、私を裏切らないのに。 私の信ずるものすべてを私から奪うのですか。ひどい。ひどい。なんてひどい話だ。私には何も残らない。 生き物は皆みな、裏切るじゃあないか。いやだ、いやだ。私を裏切らない、あれが欲しい」
 まくし立てた慶はそのままブツブツと呟いて、灰色の瞼を下ろした。 本当に屍体のようになってしまった慶を見て、黒天はそこでやっと表情をゆるめた。
 信用ならない人々の中で生きてきたこの青年は、それなら己すら信ずることをしてくれないのか、と少しさびしく思う。 思う、だけだったけれど。




求めるものも、求めるあいても、誤ってしまったようだった






名前が一緒なだけなものに……なんかもうすみませんorz    091030