あなたの言葉が目が、手が、向かうその先に私はたしかにいるというのに。 どうにも不安にならざるを得ないのです。 あなたの呼ぶその名前の後の余韻があんまりさびしくて、どうにも不安にならざるを得ないのです。 どうにかして私の方を向かせると、あなたは、本当に本当に、一瞬、悲しい顔をなさるのを、ご自分でご存知ですか。 知りもしまい。ああ、にくたらしい



「けい……」
 甘えたような声で大の男が大の男の背中に寄り掛かる。 もう何度目かのその声と背中の重みは、それでもやはり"そういうこと"に対しては恐ろしく面倒くさい 概念を持った私には慣れないものであった。身を固くする。相手の手が伸びる。腕に、胴体に、太い腕が絡まる。
「やめてください……」
「変なことはせえへんて」
「……もう、この行為自体、おかしいでしょう」
 この男は狂いなんだろうか。いいや、そんなはずはない。そんなわけがない。狂いに優しい声なんて出せぬ。 だからこの男は正気なのだ。ただすこし、とらわれているだけ。
 すこしでは、ないかも知れない
 男と違って私の体は、先に行くほど冷たさが増して、相手の温かい指先が冷たい肌に触れるたびにわずかに慄く。 小さく声も出る。ああ、みにくい。みにくい。ばかなまねだ。こんなこと現実になんてありえない。きっと夢なのだ。 だから優しい声で狂ったことをこの男は言うのだ。そうでなければ普段のこの男にあれほどの安心感があるはずがない。 言い聞かせてじっと我慢した。声を出せと言われれば出すように、男の要求と行動にはすべて応じて従った。 それらすべてが我慢だった。私はこの男が好きだ。だから苦ではない。 場合によっては己に価値を見出すほどには嬉しかった。だからじっと我慢した。男は嬉しそうに笑う。
「かわええなあ、けいえん」
 その名は誰だ
 その名は誰だ。それは私の名ではありません。そう男に嘆くと切なげな顔をした。ああ、すまん。間違えた。 そう言ってすまなそうに笑う。そんな顔は見たくないとじりじりと熱い全身で思った。 涙も出た。生理的なものと感情的なものがいっぺんにだ。どちらの割合が多いかなどわからない。 そもそもそんなことより、この目の前にいる男が、私を誰と間違えたのかが気になって気になってしょうがないのだ。
「こくてんさん……」
「うん?」
「けいえん、とは、だれ……ですか……」
 たどたどしい言葉が恥ずかしいのだが、今訊かなければまた先延ばしになってしまう気がして、意を決した。 ぴしん、と音を立ててこの空間の時間と酸素と匂いと温度が裂けた。 いちびょうがながくて、くるしくて、くさくて、つめたくて、わけがわからない。どっと涙があふれた。
「こくてんさんこくてんさんこくてんさんこくてんさんだれなんですかわたしとだれをまちがえたのですか けいえんとはだれですかむかしにいっていたぜんせのわたしですか そうなんですか、―――そうなんですね、ねえねえねえ黒天さん気づいてくださいその者はもう死んだ!!」


 しっている、とひとつ小さく声が響いた。
 知っているのならどうしてその名で私を呼ぶのですかと訊くと、ずいぶん長い間を置いて、似ているからと返される。 押しのけた。勝てるはずもないが蹴って蹴ってその広い背中に醜い痣でもつけてやろうと殴った。 背中の刺青だってなんてヤクザなことだろう! 憎たらしくて殴って殴って結局本気でなんて一回も殴れやしないのだ。 あんまり辛くて悔しくて憎たらしくて、いっそ台所の包丁で刺してやろうかとさえ思ったのだが、 血に塗れた彼なんて絶対の絶対の絶対に見たくなくて涙を流した。
「どうしてですか」
「すまん」
 謝るくらいならもう今後一切その「けいえん」という者と私を重ねずに生きてゆけるのですね、 と嗚咽を垂れながら言った。みっともない声だ。みにくいみにくい。私はどうして生きているのだろう。 これで無理だと答えたら死んでやろうと思った。

「……すまん」


そ の 謝 罪 の 真 意 は ?
屍の上に座す









 朝に起きたら疲れたような顔が目の前にあって、何かと思ったら私はその顔の男に抱きしめられていた。 どうしてこうなったかを思いだそうとするがどうにも布団に潜ってからの記憶が怪しい。 結局、とくに気にすることもないだろうと結論立てて、相手を起こさないようにすり抜けて簡素な台所に立った。
 玄関から入るすきま風も、男の寝息も、変に掠れる私の声も大概慣れた。あまり気にならない。 何度か経験のある朝だ。だからあまり気になどしない。もぞもぞと男が寝言を言ったのが聞こえた。
 今日は授業も午後からだから、後ろで寝ている男は起きるまで待ってやろうと思った。

 男は寝言でやっぱり謝罪の言葉を述べていたのだが、私には聞こえなかった。








ほんとになんかキャラとかほんとすみません。わたしのエロレベルはこの程度です(?)      091125