「慶炎、酒」 言われた通りに酒を注ぐ。もう止したら如何ですと言っても、もう一杯、もう一杯と聞かない。 これではまるでこどもを甘やかす親のようだ。これはいけない。 「なあ、酒。もうない?」 いつもとは雰囲気の違う笑顔で、酒で濁った金色が瓶の中身を要求する。 もうありませんよと言えば済むだろうか。この人が水のように飲む酒は私にとっては毒でしかなかった。 もちろん瓶から薫る匂いもである。 「もう止めにしては如何です? ……飲み過ぎると後々辛いですよ」 言葉を受けてははは、と笑う。この程度で二日酔いになんてなるものかと笑う。 たしかにそうかも知れない。この人の中身は、私とは違うのだ。 酔っているようにこそ見えるが、もしかしたら酔っている振りをして私たちの真似をして楽しんでいるのやも知れない。 わからない。この人はそういうものなのだ。 「慶炎、」 呼ばれて顔を上げる。濁った金色がさして心配しないような表情で大丈夫か?と問い掛けてくる。 「……はあ」 何故呼ばれたのかわからないので空気の抜ける返事しかできない。肩口で揺れる炎が垂れ下がった。 「注いでくへんのならもういい」 言って、私の腕から酒を取り上げる。とくとくと音をたてて己の杯に注いだ。 ああ、私の仕事がなくなってしまった。 思うと一気にこの人とこの明かりから取り残された気分になった。腕から消えた重みが名残惜しい。 取り残された私には気づかないこの人は、まったく飽くことをしないでぐいぐいと辛い水をあおる。 「黒天どの」 「うん?」 杯を口元から離して、私の声に向き直る。 ああ、やはりこの人は酔った振りをしているのだなと声をかけた裏側で思った。 「あなたは……飲めもせぬ私を隣に座らせて、酌をさせることもなく、何をしたいのです?」 ほんの少し間があいて、この人は私をじっと見つめた。 酒で濁っているくせにきらきら光る金色に見据えられると なんだか心の内まで見られている気分で居心地がずいぶん悪い。 「お前明るいし」 背の火を言っているのだろうか。しかし今宵は満月だ。 このような明かりはむしろ邪魔であろう。思ったことをそのまま口にだしてみたが笑われて一蹴された。 「そういう赤が白い桜によく映える」 そう言ってまた杯を傾けた。私から視線を外して桜と夜空を見上げる。 「綺麗、綺麗」 散る々る花びらに白い腕を延ばして、子どものように笑う。 こういうところに拍子抜けというか、果たして本当に私よりもこの世に留まっている人なのだろうかと思うのだ。 逆に永く生きたからこその無邪気さなのやも知れない。 そうだとしたら私ももうすこしこの世に留まっていたら「こう」なることができるのだろうか。 なりたい気もするし、なってしまってはもう終わりな気もした。 「慶炎」 再び名を呼ばれて思考を浮上させる。 酒は取り上げられたので酌はもうできないというのに何の用事だろうかと見ると目の前に杯を突き出された。 朱色のそれは満月の光か――もしくは背の火――の反射を受けてチカリと光る。 目の悪い私にも、その朱色は美しく目を刺したのだ。 「たまにはお前も飲み」 「私は酒は……」 えーからえーからと勝手に掌に杯を乗せてしまって、たっぷりと酒を注がれてしまった。これは困った。 私は酒を飲めないのだ。先も言ったが本当に飲めない。 とくにこの人が好む酒の味ときたら、飲んだら最後吐き気以外の何も生まぬ。それをこの人は笑って飲むのだ。 「……わからない」 「ん?」 こんなに相容れぬというのにどうしてこの人の傍らにいるのだろうと思う。 それを問うたら我々の関係はさらに打ち解けるか、打ち砕けるかのどちらかであるのは確実なのだ。 しかし、どちらになっても私の息苦しさは続くのだろうと思う。 それともそんなことはなくこの絹のような柔らかな束縛から逃れることができるのだろうか。 わからぬ。この人と私は未知だらけなのであった。 「わからない」 「何が」 「あなたのことも、私のこともわかりませぬ。これほど曖昧で……少々不安になるのです」 「はっは、お前の話はいつもそうやな」 わからないわからないとひとしきり言って、結局何がわからなかったのかもわからないで終わるのだ。 そう言ってこの人は笑う。わからない原因であるはずの彼に罪悪感なんてこれっぽっちもないのだ。当たり前であろう。 だってこれは私の頭の中でしか構築されない問いかけであって、その解答もおそらく私しか持ってなどいぬ。 たとえ世を救うという弥勒菩薩でも叶わぬことだろう。菩薩は救いであって解く者ではない。 まったく面倒な作りをしている。 頭蓋骨をかち割って私の思想のすべてをこの人に見せることができたならどんなに楽であろうと思うのだ。 決して叶わぬその願いも、この人にはわからないで私の内側にしか存在はしないのだ。 「いただきまする」 観念してたっぷりと硝子のような水が張られた杯を傾ける。 儀式の際にたびたびこの動作は教えられたので形は適っているはずであった。 唇に、水にしてはどうにもおかしな薫りを持った液体があたる。直ぐに杯を退けた。 「いただく言うたら、全部飲まんかい」 「無理です」 すでに唇に多少ついた液体も、なにやらスウスウして気持ちが悪い。 酒独特の、熱を持っているのにスウスウと冷たい感覚も苦手な要因のひとつである。 「私は酒を飲めぬと、何度言ったらわかっていただけるのか……? このような辛いもの、飲めませぬ」 「坊さんは貰ったモンは全部頂くんやないんか?」 拗ねたように唇を尖らせて、俺がせっかく……などとつぶやく。 「そうは言っても飲めぬものは飲めぬのですから……申し訳ないとは思っておるのです。 ……あなたの気が良くならないのなら杯を返すかわりに何か私にさせてくだされ」 よくよく考え、言葉を選ぶ。妙な解釈になってしまわぬようにと気を張った。 いつもいつもそれでこの人をさらに不機嫌にしてしまうものだから、今度こそはと思ったのだ。 己にしてははっきりと出た要求の言葉は、はたして相手に――届いていないようだ。 「慶炎、桜々。見てみ」 真上を見ながら金色の瞳をキラキラさせてこの人は、やはり子どものようにはしゃいでいる。 「……はあ」 丁度、先ほどの私の発言の終わりに強い風が吹いたのだ。 ざあざあと音を上げて桜の大木が大きく揺れ、それはたしかに美しく哀れ以外の何物でもない。 ……ああ、わからない 先ほどから何度も何度も使用している「子どものよう」という比喩は絶対に間違いではないだろうなと思う。 この人はたぶん子どもなのだ。 私よりもずいぶん長くこの世に留まっていたとしても、そんな時間ものともしない子どもなのだ。 だから私はきっとこの人が苦手であり、煩わしく思う。 今よりも感受性というものがある私であったなら、きっとこの人をつっぱねて、この桜だって見ることはなかっただろう。 この人だって私がもっとしゃべる者であったなら酌をさせるために傍らに置くことだってないのだ。 ああ、わからない。この偶然がわからない。この人がわからない。私のことすらわからない。 凡て解らない事だらけの世界にどうして私は留まって居るのだろう。 それすらわからなくなる 「お前と一緒の花見酒はええなあ」 私の内側なんてこれっぽっちもわかっていないこの人は笑うのだ。ああ、なんて身勝手。 惚気たところで私以外の誰も聞いてやいないのに、 背に飛び入る桜の花弁のように散って消える言葉を酒を飲み込むかわりにこの人はいくらだって垂れ流す。 わからないのだこの人だって。どうして私如きを己の傍らに置いて居るかなんて、そんなこと この人と私が二人でいると世界はこんな桜のようにうすぼんやりとしてしまうのだ。 この人がここにいる理由も、私がここにいる理由も、二人一緒にいる理由も、何もかもの輪郭がうすぼんやりと。 ――私はそうやって、この世への留まり方を忘れていくのだと思う。 そう云う世界の輪郭をあなたとなぞる 好きなものがすぐ近くにあると、本来の目的がぼんやりとするんだ。本来の目的:花見 100512 |