芒種のこと











 じっとりとした空気が世界に満ちる。
 私は梅雨とか夏とかとにかくこの湿気の多い季節が嫌いだ。 好きな人もそうそういないのだろうが、たぶん私は人一倍苦手なんだと思う。 冬や季節の変わり目よりこの季節に体調を崩す。 知る人がいれば昔のお前は水に弱いからなぁなどと納得されてしまうが、別にそういうわけではないと思う。 ――たしかに、いつもより背中の大きな痕が痛むけれど。

 ちなみに、今日も実は絶不調だ。
 しかし周りに悟られてはいない、はずだ。いつも通りを心掛けているつもりである。 ……それでも、なんとも目敏く異変に気づく人もいるわけだが。
 そういう時に私は唯一その人が嫌いになる。放っておいてくれたらいいのに。
「慶、お前さん無理すんなよ?」
 キラキラの太陽がふたつ、顔色を伺うように覗き込んできた。 眉にすらかからない前髪が湿気のせいか気持ち立ち上がって見える以外、 なんの変化もない彼の顔が目の前にあることに気づくと、すぐに私は顔を背けた。
「無理、してるように見えますでしょうか」
「見える見える。ちゅうか無理しとるやろ?今日は夕飯とか俺やるか?」
 逃げるように歩を進める私を追いかけて意地でも顔を覗き込む彼の顔は本気で心配していた。 ほんの少し申し訳なくなったが気分が悪くてうまい言葉が出てこない。
「大丈夫ですよ、そんな家事もできないような体調じゃなし……。 ていうかあなたに台所立たれると怖いんですよね。芽吹並みに」
「芽並み……」
 長い睫毛が太陽色の瞳に影をおとす。ああ言い過ぎたろうか。……というと芽吹に言い過ぎな気もする。 知人を例えにするものではないなと少し反省した。
「黒天さん」
 呼びかけると、ひょいと顔を上げて何?とやはり目をキラキラさせて私の顔を見つめる。 彼に尻尾があったらぶんぶん振っているのかなあなどと思う。同サークルの一回生を思い出した。
「黒天さん、そっちのトマトとってください。筋が入っていて形が良くてあと―― 「あー、へいへい、わかっとるから言わんでええって」――だって……」
 なんでもしつこく言ってしまうのは、なんというかもう癖である。 しかし家事と勉強くらいにしか興味がわかない私にとって、 料理くらいしか趣味と言えるものがないからこだわるのもわかって欲しいところだ。
「慶ー、俺あれ食べたい。前お前さんが読んでた雑誌のアレ」
「アレじゃわかりませんよ。付箋つけといたヤツならそのつもりですけど」
「えー、それじゃわからんー……」
「お互いさまです」
 言っておいてなんだが、たぶん同じものを言っている。 気分が悪いから言葉の足りない相手の科白につっこみも入れないので会話がおかしなことになる。

 買い物が終わって外に出ると来たときと同じように雨が降っていた。
 この陰鬱な空気と若干のガソリン臭さがたまらなく嫌いだ。見えない水滴が肌にはりつくような感覚も嫌いだ。 あと今はいないがあのぬるぬるした生き物や羽虫が跋扈するのもいただけない。 虫だのは昔から好きになれずによく泣かされた思い出もあろう。傘も嫌いだし水溜まりも嫌いだ。 とにかく服を着ているのにじっとりと濡れるのが嫌なのだと思う。
 しかも帰ったら――大家さんには申し訳ないが――蒸し暑くてどんよりした部屋が待っている。 換気もできないし乾燥機なんかもないのでもう最悪だ。 今年こそ買ってやろうと思うが、卒業の年なのでどうにも尻込みしてしまう。
 自然にため息が出て、食材の入った袋もずうんと重みを増した。 そういえばこれらもはやく食べないとこんな時期じゃすぐに黴の餌食だなと思った。
「大丈夫か?」
 さっぱりした声に振り向くとすでに傘を差して雨の中に入っていった黒天が眉間に怪訝な色を添えて突っ立っていた。 走って追いつく。
「大丈夫です」
「んー。持つ、持つ」
 半ば取り上げられるように手から離れた袋を見つめる。 どんよりした空気に緑や赤が綺麗だと思った。帰ろうと促されて歩き出した。 びしゃびしゃと靴を濡らす雨水を呪いながら帰路を行く。
「蒸し暑いなあ」
「はあ……」
 現実味がないなと思う。そもそもこの人に雨やら湿気やらが似合わないのだ。 上手く表現ができないが……この人は、そう、太陽みたいな人だから。
 考えてすこし違うかなと思った後に、なんてキザな表現だろうとも思う。 しかし恥ずかしいことを簡単に言ってのけるこの人には丁度いい表現なのだろう。 好きだのかわいいだのと男が同年輩の同性に向けて言う言葉だろうか。 最近はもう慣れたが最初の頃など言葉を失った。 いつか誰かにあれは馬鹿だから容赦してやれなんて言われた記憶もある。たしかに馬鹿だ。
 ただたぶん黒天のそういう部分が好きなんだとも思う。
 雨天にこんな眩しい人の隣にいたら、私は気温だ湿気だの激変で体を壊して――その前に心を壊してしまうだろう。 もしかしたら、もう壊れて麻痺してるのやも知れない。
 こんなに眩しい太陽みたいな人をいつも招いて食事をするなら、 あの蒸し暑い部屋にもはやく帰りたいと思えてガラにもなく私は水溜まりを弾いた。

 








とにかくじめじめが苦手だったので慶にも苦手になってもらった      100620