第一話 【漆黒に光る少年】


 どろり。
 サツキの前にはひとつ、闇があった。
 小さな闇だ。けれど動いている。懸命に命乞いでもしているのだろうか。 「惜、惜……」とか細く消え入りそうな声で何かを言っている。なぜだか腹が立った。
「命など無いくせに」
 引き結んだ唇を開き、サツキは忌々しげに闇を一瞥する。 その視線に闇は怖気づいたように小さくひとまとめになってしまう。 手のような形をした影がぐにゃりと黒い二つの穴を覆う。闇はサツキを恐れていた。
「鬼のくせに……」
 刀を持つ、呪布に包まれた左腕を振り上げる。装飾の白銀の髪がさらさらと肩を伝う。 髪のすべてが腕の動作に追いつく前に、闇に刀をたたきつけた。 まるでガラスが割れたような音がして、闇はぐったりと力尽きる。 はたから見たら、ただ付く物に置いていかれた影のようだった。実際、そうなのかも知れないけど。
 サツキは懐から紙札を取り出し、念じながらその闇に放る。 "氷"と草書で描かれたそれは、サツキの念に応えるように、ピシッと音を立てて闇を凍結させた。
 本来闇が凍るという表現は間違っているのやもしれないが、その札は"対鬼用"であるから問題はなかった。 ――そう、この闇は、鬼なのである。
 サツキは無表情、無感情にその巨大な刀を背に負う。雪のような白刃はいまや錆びた鉄色と化している。
 凍結した鬼を拾い上げ、サツキは空を仰ぐ。チカッと今まで感じなかった眩しさを感じ、 サツキは反射的に眼を細める。厚い雲が拭い去られた空が、ひどく澄んだ色できらめいていた。
 闇が、いっそう濃くなったような気がした。
 

 梅雨の合間の、からりと晴れた日は実に気持ちのいいものであるが、都会というものはそうはいかない。
 汗が滝のように流れおち、灰色の地面、高層ビルからは熱気がゆらゆらと目に見えるほど。 サツキは好きも嫌いも多くない者だったが、この暑さとこの青は、あまり好きではなかった。
 逆に冷たいものはどちらかと言えば好きで、小脇に抱えた鬼の塊も、すこし心地よい。 それでも急ぎ足なのは汗が止まらないからだ。
 そうしているうちにとある建物の前に着いた。白い箱のような簡素な形の建物。 けれど所々に我が国の特徴的な屋根だとか窓だとかがあしらわれている。
『西江戸区鬼退治詰所』というのが建物の名前だ。サツキの仕事の成果を報告する場所である。
 中に入ると涼しい空気がサツキを包む。冷房がよくきいている。汗もぴたりとおさまった。
 受付に凍りついた鬼を提出し、臨時収入を得る。基本的に影同然の鬼は二千円前後が妥当だ。
「あらサツキくん、また鬼を倒したの。優秀ねえ」
 すでに見知った仲となった詰所の受付嬢。名は鈴山と言う。 ケガを伴って鬼を倒した際、報酬をおまけしてくれたりだとか、 受付嬢であるにかかわらず手当てしてくれたりだとか、とても気の良い人である。
「俺よりも優秀な人材なんて、もっといるでしょう」
 サツキは苦笑いを浮かべ、鈴山も笑う。そんなことないわよ。今、まだ十三歳でしょう。 それなのに大人みたいに働いて偉いわ。足が動かないから私には無理だもの――そう言って。
 彼女もまたサツキと同じく鬼退治であるが、前線で働くことはできない。
 詰所の受付でただ雑用に徹する。仕事中はともかく他の用のときはさぞ不自由なことだろう。
 本来ならば保護を受けるべき"欠けた者"までもこうして働いているのは、彼らが――我らが、 身よりのない孤児であり、なおかつ、我らを保護する法や団体を作る余裕が幕府にないからである。
 それに、そんな保護法を作る必要もないのである。 "欠けた者"は、国の礎となり働く以外に生き永らえる理由などなかったから。
 これを差別だ迫害だと騒ぐ者もまたいなかった。それが当たり前だったからだ。
 思っていたとおり、妥当な値段を受け取り、軽く会釈をして詰所を後にする。鈴山が笑顔で手を振る。 応えて、サツキはまた日差しにさらされる。目がチカチカした。


 さほど長くない石段を登り、サツキは寺院内に入る。幼少の頃から過ごした寺だった。
 幸運な"欠けた者"は、このような寺院の住職に拾われたりする。サツキはその幸運な者だ。 ここで、生き行くための知識と、礼儀と、武術を学んだ。
 "欠けた者"たちが集まる寮に向かうように、本堂前を突っきろうとすると見覚えのある後ろ姿を見つけた。 後ろ姿はどこからどう見てもサツキと変わらない少年だが、僧侶の中で高い地位の者が着る法衣を纏っていた。 サツキは十歩ほど歩み寄り、後ろから声をかける。
「ただいま戻りました。師匠」
 その言葉の余韻まで聞いているように、たっぷりと時間をかけて首をひねる。 原色の、緑の眼がサツキをとらえた。口元はいつものようにゆるやかな弧を描いていた。
 その少年、名を北条ヒビノマル。サツキの師匠にして、寺院の経営者だ。
「やあ、サツキ。仕事は終わったのかい?」
「はい。先に今日のノルマは果しました」
「そっかぁ、まだお昼を回ったばかりなのにスゴイねえ。……あ、そうだ。お昼御飯食べる?」
「いえ、腹は減っていませんので」
 またまたぁ、そんなに働いてるのにお腹空かないワケないでしょ。 笑って、少年は掃除道具を片付けはじめた。僕もまだお昼を食べていないから一緒に食べよう、と。
「……それなら、いただきます」
「よろしい。それなら食堂に行こうか。はやく行かないと家政婦さんが別の仕事を始めてしまうからね」
「はい」
 ゆるやかで流れるような身のこなし。それは彼が鬼退治を引退した後も変わらないと聞いた。 聞いた、というのはサツキがヒビノマルの現役時代を目で見ていないからだ。彼は過去を語らない人であった。
 サツキとヒビノマルは、武器も流派もまったく異なる者同士だが、 サツキは武術としての師であるヒビノマルを大変慕っている。 過去を語らぬその笑顔も、サツキにとって憧れを持つひとつの要素だったのだ。


 食堂にて軽い昼食をとった後、サツキはヒビノマルに付いて武術の稽古をする事となった。


 サツキの刀は、呪刀"鬼姫斬刀"と言った。 まだ鬼が生き物として扱われていた時代に作られた、鬼の姫の首が刃と柄を繋ぐ鍔変わりとなっている呪い仕掛けの刀である。 斬る刹那、戦場に立った時のみその白く美しい刃を煌めかせる、まさに一閃のためだけの刀。
 サツキは愛着を持って、その相棒である刀を"キキ"と呼んだ。

「さあ行くよ、サツキ」
「はい」
 サツキはキキを構える。盾のように掲げている形だ。足にぐっと力を込める。
 そして、
 駆け、跳んだ。
 ――ガンッ!
 金属と金属がぶつかり合う音。わずかだが火花が散った。
 サツキは宙に浮いたまま、クナイで止められた刀を軸に蹴りを入れる。感触はなかった。
 背後に風が起きる。土を蹴る音が遅れて聞こえた。――鈍い痛みが脇腹から感覚を取り除いた。
「――ッ」
 ヒビノマルのひじがサツキの脇腹に入ったのだ。
「遅いよ」
「……なんとでも」
 ヒビノマルの一寸前を蹴りが通り過ぎる。ヒビノマルはやはり笑う。
「当たってないよ」
 わかりきったことを言う。サツキは振りきった足をさらに蹴り、構えを解いた状態の刀をヒビノマルに叩きつける!  だがヒビノマルの姿はとうにそこに無く、着地した瞬間を無駄のない蹴りが襲う。 だがサツキはそれを避け、後ろに跳び、間合いを空ける。リーチはサツキに分があるから。
「来いとは言いませぬ。……そこで立って居てくれたらば都合が良い」
「動かない鬼がいるかい」
「俺が滅した鬼の多くが影がら動きませんでした」
「……そう、動き出す前に滅しているということだね」
 ならば仕方がないね。笑って、ヒビノマルはスッとサツキの懐に身を投じる。
「ぐぁッ」
 鈍い感覚。腹部に、だ。酸っぱい物が込み上げる。
「遅いよ、サツキ」
 ヒビノマルの胴を蹴って間を空ける。その場で吐いた。腹がぐるぐると音を立てた気がし、喉が焼けそうになった。 ひどい味がした。頭と視界ははっきりとしていた。
 黄色い液が口から垂れるのなど構わない。跳び、斬り結び、そして一閃。斬らねば。これは戦いでない。稽古だ。 一発入れることができればこちらの勝ち。だからたった一閃を、紡ぎださねばならない。
「あああああ!」
 ――ガンッ
 まだだ。一閃入らない。またクナイに邪魔された!
 ――ガンッガンッ
 金属同士の音は要らぬ! 肉を裂け、キキ!
 そう念じた。キキは刀、意志など持たない。だが――白刃は答えた。
 煌めく。

 音が鳴ったかは知らない。気づけば、キラキラと何やら黒い物が散っていた。
「おや……クナイが」
 ヒビノマルの声にいささか驚きの音が混じる。彼の持つクナイは―― 一本、粉砕していた。


 サツキはとびきり優秀だ。
 ヒビノマルは粉砕したクナイを眺めて思う。思わず心から笑顔がこぼれる。
「す、すみません。師匠。クナイが……」
「いいよ、大丈夫。クナイなんていくらでも持っているから」
「ですが」
「大丈夫だよ」
 サツキの肩に手を置く。びくりとサツキの肩がはねた。
「君は本当に優秀だね。僕の今までの弟子の中でも指折りに入るほど。本当に」
「そんな、俺なんてまだまだです。……吐いたし」
 サツキの視線を追って、黄色い水たまりを見る。胃液と昼食が入り混ざったもの。
「吐いてもなお、向かってくるとは思わなかったよ。……ああ、でも体は大切にしないと。 これは本当の戦闘ではないのだから。無理することはないんだよ」
 サツキの視線が泳ぐ。叱咤されるといつもそうだ。まだ幼いからこれが普通なのだろうけれど。
「……ですが、もののふたるもの、この程度耐えられぬようでは……」
 それはそうだけど。融通の利かないのはどんな子どもでもそうだ。目指すものがある子どもはなおさら。 ヒビノマルは苦笑いを浮かべて、肩をポンと叩く。口を洗っておいで。
「はい。……師匠。あの、このことは他の者には……」
「言わないよ。大丈夫大丈夫。ホラ、見られたくなかったら早くウガイしておいで、そしてアレを片付ける! ね?」
「はい……」
 先ほど行ったばかりの食堂に、もう一度足を向けるサツキを見送って、ヒビノマルはくすりと笑った。
「どうだい? 僕の最高傑作。有望だろう」
 誰もいぬ庭で、ヒビノマルは笑い声を殺す。すばらしい、と蟻が話すほどの小さな声。
「これならば、僕の悲願……叶わないはずがない」
 そうだろう?と天を仰ぐ。答えはなく、ゆっくりと影が――闇が、長くなった。


 長身痩躯の男が影に潜む。
 表情は見えない。物音さえ立てない。気配も絶っている。 すぐ横を子どもがひとり走って行ったがその子どもは気付かなかった。
 静寂に身を隠すその男は、やっとひとつ、舌打ちをした。




執筆終了時の日付を見たら08年でした。死にたい。